8.宗教 -今や神は国家に仕える-
非宗教的な人は少数派である(友注 ギャロップ調査)。依然として何十億もの人が進化論よりもクルアーンや聖書を信じると公言している。伝統的な宗教は、21世紀の世界でどのような役割を果たすのだろうか。それには以下の3つに問題を区別する必要がある。
(1)技術の問題 宗教は近代以前において、様々な分野の多様な技術的問題を解決する責任を担っていた。神聖な暦によって種まきや収穫の時期を決め、祈祷をした。最近では生物学者や外科医が、聖職者や奇跡を起こす人の後を引き継いだ。科学の勝利は完璧だったので、宗教について私達の考え方そのものが変わった。私達はもう宗教を農業や医療とは結び付けない。(友注 ビオワインのような例外)
(2)政策の問題 科学者は地球温暖化は現実のものだと合意しているが、どのような経済的対応をするのが最善かについての合意はない。とはいえ、伝統的な宗教がこの問題を解決するということではない。確かに一部の宗教指導者は政府の経済政策について直接の発言権があるし、非宗教的な国でさえも課税から環境規制まで、様々な問題に関して世論に影響を与える。しかし、それらの答えはクルアーンや聖書の中には見つからない。なぜなら、7世紀のアラブ人は、現代の産業経済とグローバルな金融市場の問題や機会について、全く知らなかったからである。例えば結婚のような人生に関わる決定を下す権限をAIに与えるべきかどうかという疑問に対して、イスラム、キリスト、ユダヤ教はそれぞれ合意された立場があるのだろうか。それぞれの宗教の中に賛成と反対が混在することになるだろう。それらの相違の真の源泉は、現代的な科学理論と政治運動にあり、聖書にはない。この視点に立つと、宗教は現代の重要な政治議論にはろくに貢献できない。
(3)アイデンティティの問題 人間の力は集団の強力を拠り所としており、集団の協力は集団のアイデンティティを作り出すことに依存しており、どんな集団のアイデンティティの基盤も虚構の物語であって、科学的事実ではなく、経済的な必要性でさえない。21世紀には、宗教は雨をもたらさず、病気を治さず、爆弾を製造しないが、「私たち」とは誰か、「彼ら」とは誰か、誰を治療するべきか、誰を爆撃するべきかを決めることになる。(要追記)
というわけで、少なくとも7章で述べた3つの問題はグローバルなレベルでしか解決できないものの、その一方でナショナリズムと宗教が依然として人間の文明を異なる、そして敵対することの多い陣営に分割している。このようなグローバルな問題と局地的なアイデンティティの衝突の事例は、EUという多文化による世界最大の実験のなかに「統合と移民」という難問として現れている。
9.移民 -文化にも善し悪しがあるかもしれない-
移民をめぐる複雑な議論については論点を明確にするために、移民を3つの基本的な条件を伴う取り決めとみなすといいだろう。
条件1 受入国は移民を入国させる。条件2 移民はその見返りとして、たとえ自分の伝統的な規範や価値観の一部を捨てることになっても、少なくとも受入国の基本的規範と価値観だけは採用する。 条件3 移民は十分同化したら、やがて受入国の対等でれっきとした成員となる。そして「彼ら」は「私たち」になる。
議論1 移民賛成派→道徳的義務として受け入れる。どちらにしろ抜け道を使って入国する。 移民反対派→難民のケースは別として、門戸を開く義務はない。トルコはシリア難民を受け入れる義務があるが、それらの難民がトルコからスウェーデンへ移ろうとした時に、スウェーデン人はそれを受け入れる義務はない。そして人間の集団が持つ最も基本的権利の一つは、侵入から自らを守ることである。よって移民受け入れは、義務ではなく恩恵である。
議論2 移民賛成派は、ヨーロッパそのものが多様であり、それによって活気づいているのだ。パンジャブ(友注 インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域)からの移民にカレーとマサラを捨てさせ、フィッシュ・アンド・チップスを食べることを求めるべきなのか。移民反対派は、ヨーロッパは寛容性を大切にするからこそ、とりわけイスラム教国の不寛容な人があまりに多く入ってくるのを許すわけには行かない。社会の性質そのものが変わってしまう。そしていずれ完全に平等な待遇を与えるのだから、完全な同化を要求する。
議論3 移民が社会の正規の成員となるにはどのくらいの時間経過が必要なのか。この議論の根本には個人の時間の物差しと共同体の時間の物差しとの隔たりという問題がある。共同体の見地に立つと40年は短く、個人の見地に立つとそれは永遠にも等しい。自分が祖父母の移民の三世なら、自分はアラビア語ではなくフランス語が唯一の母国語になっているだろうが、それでもアルジェ(友注 アルジェリアの首都。西部地中海に面している)が帰るべき場所なのだろうか。
議論4 そしてこれらの取り決めがうまく言っているのかという疑問が残る。移民反対派は、条件2を満たしておらず、条件3を満たす理由はなく、条件1を再考しなくてはならないと言う。移民賛成派は受入国の問題であると言う。大多数の移民が同化しようと努力しているのにも関わらず、受け入れ国がそうするのを難しくしていると言う。
こうした議論の裏には、あらゆる文化は本質的に対等だという前提に立っているのか否かという疑問がある。移民の取り扱いの問題を見ていると、一見して「人種差別主義者」のように見えかねない。しかしこれらは「文化差別主義者」なのだ。人種差別についてはこの100年で大きな改善を見た。遺伝学者は、人種間の生物学的差異はほぼないとする科学的証拠を提示している。何もこれは専門用語の無意味な変更ではなく、次の根本的な変化を示している。まず文化は生物学より順応性があり、「他の人々」が私たちの文化を採用しさえすれば対等の人間として受け入れることができる。そして文化について語る場合は、その両者とも道理にかなっていることがあるかもしれないという点だ。
民主主義的結果がどうであろうと、次の二点については重要である。第一に地元の人々が不賛成なら、移民の受け入れを強制するのは間違いになる。移民を首尾よく統合するには、地元の人々の支援と協力が欠かせないからだ。第二に、国民は移民に反対する権利を持っているとはいえ、外国人に対する義務も依然として負っていることに気づくべきだ。前章で述べたとおり、私たちはグローバルな世界に生きており、私たちの生活は地球の裏側の人々の生活と分かちがたく結びついているのだ。
10.テロ -パニックを起こすな-
毎年交通事故で亡くなる人は全世界で125万人である。糖尿病と高血糖値に起因する死者は350万人、大気汚染では700万人が死亡する。一方で、9.11以降、全世界(主に中東)でのテロの死者は2万5千人である。それなのになぜ私たちは砂糖よりテロを恐れ、政府は慢性的な大気汚染でなく、散発的なテロ攻撃のせいで選挙に負けるのか。テロとは「恐怖」という文字の通り、物的損害ではなく、恐れを広めることで政治情勢の変化を期待する軍事戦略だ。
テロは重要な決定をすべて敵の手に委ねることになる点から、軍事戦略としては魅力に乏しい。よって、テロリストは自らを演劇プロデューサーのように考える。劇的な光景を現出させ、敵を刺激して過剰に反応させることを願う。我々の脳裏には、9.11のペンタゴンの被害よりも、WTCの崩落の映像のほうが強く焼き付いている。
国家がテロの挑発に乗らないでいるのが難しいのは、現代国家の正当性が、公共の領域には政治的暴力を寄せ付けないという約束に基づいているからである。例えばフランスでは毎年国内で1万件以上の性的暴行事件が報告されているが、それらの主に男は、国家の存続に関わる驚異とはみなされていない。一方、テロはずっと稀なのにも関わらず、驚異とみなしている。国内の政治的暴力が少ない国ほど、一般大衆はテロ行為に大きな衝撃を受ける。ベルギーで数人殺害するほうが、イラクで何百人も殺害するよりも、はるかに大きな注意を引く。
それでは国家はテロにどのように対処するべきなのか。第一に、政府はテロのネットワークに対する秘密活動に重点を置くべきだ。第二にマスメディアは釣り合いの取れた見方をし、ヒストリーを避けるべきだ。マスメディアはこれまで無料でテロの宣伝を行っている。第三に、私たち一人ひとりの想像力だ。テロの恐怖は、私達自身の内にある恐怖心なのだ。
11.戦争 -人間の愚かさをけっして過小評価してはならない-
ワシントンや平壌、その他の指導者の性格を考えると、世界の戦争に対する緊張は間違いなくある。とはいえ、1914年(友注 第一次世界大戦のきっかけであるサラエボ事件は同年6月)と2018年の間には、重要な違いがいくつかある。まず、1914年には世界中のエリート層は戦争に大きな魅力を感じていた。戦争に勝利すれば、経済が反映し政治権力を伸ばせるからだ。そして2018年には、そういった魅力はあまり感じられない(注 2014年のロシアによるクリミア征服を除く)。
そして21世紀に主要国が戦争で勝利をおさめるのが難しい理由の一つに、経済の性質がある。過去には経済的資産は主にモノ(友注 原著では物)だった。今日の主な経済的資産は、小麦畑や金鉱、油田ではなく、技術的な知識や組織の知識からなる。(友注 いわゆる情報)実際にシリコンバレーを征服したところで、GAFAの企業価値が手に入るわけではないのだ。核兵器とサイバー戦争は、損害が多くて利益が小さいテクノロジーなのだ。
しかし人間の愚かさを過小評価してはならない。人間は個人レベルでも集団レベルでも自滅的なことをやりがちだ。ドイツとイタリアと日本は、戦後、前例のないレベルの豊かさを享受していた。なぜ彼らは敢えて戦争をしたのだろうか。全ては馬鹿げた計算違いに過ぎなかった。当時の日本の総意として、大陸の支配権を失えば日本経済が停滞する運命にあると考えていたが、日本の経済成長の奇跡は大陸の領土を全て失ってから始まったのだ。人間の愚かさの治療薬となりうるものの一つが謙虚さであろう。世界に占める自らの真の位置について、国家や宗教、文化にもう少し現実的で控えめになってもらうにはどうすればよいだろうか。
12.謙虚さ -あなたは世界の中心ではない-
ほとんどの人は、自分が世界の中心で、自分の文化が人類史の要だと信じがちである。イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本をはじめ、他の無数の集団も同じように、自国による目覚しい業績がなければ、人類は野蛮で不道徳な無知のうちに暮らしていただろうと確信している(友注 おそらく大部分の日本人はそのように考えていないが)。しかし、そうした主張は間違っている。人間が世界に住み着いたときも、動植物を家畜化、栽培したときも、最初の都市を建設したときも、書字や貨幣を発明したときも、今日の宗教や国家のどれ一つとして存在していなかったではないか。本章では著者の身近にある、ユダヤ教の例を使って、そのように自己を過大評価する滑稽な物語を説明する。
前著「サピエンス全史」が刊行された時に、著者の母国イスラエルの読者から、なぜキリスト教とイスラム教徒、仏教について詳しく書いているのに、ユダヤ教徒とユダヤ民族にはほんの数語しか費やさなかったのか、という批判とも言える質問を得た。イスラエルの義務教育ではグローバルな歴史的プロセスを教えられることはなく、ヘブライ語の聖書から始まり、第二神殿時代から、ディアスポラ(友注 民族離散)時代、そしてシオニズム(友注 イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようという運動)とホロコーストを中心に学び、イスラエル国の創建で頂点に達する。このような歴史的教育を受けた人は、ユダヤ教が世界全体には比較的小さな影響しか与えなかったという考え方をなかなか受け入れない。
ようやく19世紀になって、ユダヤ人が近代科学で人類全体のための貢献をするところを目にした。ユダヤ人は世界人口の0.2%にもかかわらず、アインシュタインやフロイト(友注 精神分析学の創始者)を排出し、科学の分野でノーベル賞の2割を占めた。しかし、これはユダヤ教の貢献ではなく、個々のユダヤ人の貢献である。このようにユダヤ人が科学の分野で貢献し始めたのは、彼らがイェシバ(友注 タルムードを学ぶ場所。神学校。)を捨てて研究所を選んでからのことだった。
こうした事例の通り(友注 他事例は本書参照。)ユダヤ教は人類史にとって、特別重要ではなかった。ユダヤ教に限らず多くの宗教が謙虚さの価値を褒め称えておきながら、自らがこの宇宙で最も重要だと考える。どんな宗教を持つ人でも皆、謙虚さをもっと真剣に受け止めるといいだろう。
13.神 -神の名をみだりに唱えてはならない-
神は存在するのか。我々は様々な世の中の疑問、そしてそれらの無知に「神」という大層な名前をつけるが、その神の根本的な特徴は、私たちは神について具体的なことは何一ついえない点で一致する。忠実な信者たちは、神の存在について聞かれると、例えば、「科学にはビックバンは説明できません。」そして聖典を通じて、些末な規則を啓蒙する。例えば、人前では髪を覆い、同性婚には反対票を投じろ、とする。しかし宇宙の神秘が深いほど神であれ何であれ、その原因となる存在が、女性の服装規定や人間の性行動を気にする可能性は低いのではないか。
とはいえ、神は私たちに思いやりのある行動を取る気にさせる。しかし宗教的信仰心がなければ道徳的行動が取れないとは言えない。私たちは道徳的に行動することを強いるような超自然的存在を必要とする考え方は、道徳にはどこか不自然なところがあるという前提に立っている。だが、それはなぜだろうか。
人間は全部の社会が同じ神を信じているわけではないし、神の存在すら信じていない場合もあるのに、道徳はあらゆる社会に存在する。よって道徳とは「神の命令に従うこと」ではなく、「苦しみを減らすこと」だといえる。そして道徳的に行動するためにはどんな神話も物語も信じる必要はない。
神殿を訪れると平静や落ち着きを経験できるのなら素晴らしいことだ。だが、特定の神殿が暴力と争いの原因となるのなら、そんな物は必要ない。どの神も信じないというのも有力な選択肢の一つだ。過去数世紀を振り返ればわかるように、必要な価値観はすべて世俗主義に提供してもらうことができる。
14.世俗主義 -自らの陰の部分を認めよ-
(友注 世俗主義 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それらから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないという主張・立場。あるいは宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則。)
宗教指導者は信徒に二者択一の選択肢を提示することが多い。例えば、あなたはイスラム教徒であるか、否かのどちらかであり、もしそうなら、他の教義はすべて退けるべきだと言う。世俗主義の倫理規定は、真実や思いやり、平等、自由、勇気、責任といった価値観を尊重しているものの、イスラム、キリスト、ヒンドゥー教徒にも受け入れられている。世俗主義は、現代の科学機関や民主的機関の基盤となっている。
それでは世俗主義的な理想とはなんであろうか。最も重要な責務は、「真実」に対するもので、それはたんなる信心ではなく、観察と証拠に基づいていることである。現代科学は真実を神聖視し、その姿勢の上に成り立っている。
もう一つの重要な責務は、「思いやり」に対するものだ。例えば殺人について世俗主義は、何かしらの古い文書(友注 いわゆる聖典)が禁じているからという理由ではなく、命を奪えば感覚ある生き物に途方も無い苦しみを与えるから、それを控える。「神がそう言っている」からというだけで殺人を控える人々は、逆に神が魔女を殺すように命じていると信じるようになったら何をしでかすだろうか(友注 魔女狩り)。
そして真実と思いやりに対する双子の責務は、「平等」への責務にもつながる。苦しみは誰が経験しようと苦しみであり、知識は、誰が発見しようと知識だ。世俗主義は自身の属する国や文化に誇りを持っているが、「独自性」と「優越性」を混同しようとはしない。
ここまで見た中で世俗主義の科学には、大半の伝統的宗教よりもずっと有利な点が少なくとも1つある。すなわち、自分の影の面に恐れをなしておらず、進んで自分の誤りや盲点を認める建前になっていることだ。誤りを犯しがちな人間による真実の価値を信じているなら、失敗を認めることも自ずとその探求の一端となる。
このような観点から、私たちがこれから生命の歴史の中で最も重要な決定を下すにあたって、著者としては、無謬性(友注 むびゅうせい。誤りが含まれておらず、絶対正しいと考えること。)を主張する人よりも、無知を認める人を信頼したい。